またこの前友人と渓流にいってきました。
今回は釣行ではなく、釣りそのものについて書きます。
友人と釣りにいくたびによく、
「食うために釣ってるわけじゃない」 「釣れすぎるとつまらない」 「とはいえ釣れないとつまらない」 「そういうことじゃないんだよね」
などと、思春期の恋煩いのようなことをぶつぶつと呟いております。
よく渓流釣りを知らない人に、その大変さを物語ると、「そこまでして何で釣りしに行くの?」と聞かれます。
今更「なぜ」と聞かれても、こう何度も釣りにでかけている自分にとっては、そう言われてみるとなぜなのか?逆に疑問に感じてきます。
少し考えてみました。
真っ先に思いついたことは自然との対峙を楽しんでいるという説。自然というものは個人的には好きですし、その一面として魚一般も好きではあります。それ自体が何故といわれればまた別の次元になってしまいますが、ひとまず自然という側面はありそうです。
自然が好きということから考えれば、自然について知り、深く理解したいとか、調和をしたいという思いも、ないわけではないです。例えばヤマメやイワナの幼魚が釣れてしまったらリリースしますし、時折ゴミを拾ったりもしますので、一種の調和といえそうです。そうすると、釣りをするという行為を通じて自然について何らかの対話をしようとしているのかもしれません。
こうした高次元な考えもありそうですが、もっと低次元(単純といえばよいか)のような気もします。
釣りというのは、50%ぐらいは運です。しかし残りの50%は情報・技術(経験)・戦略で成り立っていると考えています。釣り場や魚の情報を集め、何度か経験して上達し、そして他の釣り人の行動を推測し自身の行動を変えるなどした上で、さらに運がついてきたときに魚が釣れます。釣れたときにはたいてい、それが運以外の要素の結果であったと信じたくなります。
これはその類のゲームに似ています。たとえば麻雀は似た性格があります。単発のゲームならほぼ確率論でありながらも、平均的には技術と戦略によって成果がでます。
そう考えると、私が釣りをしたくなるのは一種の報酬系が脳にできてしまっているとも考えられます。もう一度気持ちよくタンピン三色を上がりたいという欲求に突き動かされているだけであるという説です。
ところで、仕事では行動に対して常に目的を考えるものですが、趣味においては目的は考えなくてもよいので、とても気が楽です。もしかするとどこかで、目的から解放された時間を欲しているのかもしれません。
私が釣りをしたくなる理由は、概ね単なる報酬系がきっかけとなりながらも、繰り返しにより芽生えてきた高次元な思いや、また日常から相対的に脱目的的な時間を持ちたいという思いが随伴したところにあると考えると、何となく納得感があります。ま、それって正に"趣味"だよね、という感じですが。